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音楽

夢や感動を与えるという言葉の違和感

audience

みなさんこんにちは。

 

僕は自分のことをあまりひねくれている人間じゃないとは思うんですが、

スポーツ選手や芸能人たちが言う「夢や感動を与える」という言葉には昔から違和感を覚えていたんです。

スポーツ選手や芸能人が「夢や感動を与えたい」という度に、なんかおかしいなと引っかかっていました。

僕と同じようにそう思う人はたくさんいると思います。

だからこそこの記事がたくさんの人に検索されているわけですし。

だからそんなあなたのために、この記事ではこのモヤモヤの正体について考えていきたいと思います。

 

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夢や感動を与えたいという言葉の違和感について考える

清々しい朝

 

ここからは僕含め皆さんのモヤモヤを解消すべく、

夢や感動を与えたいという言葉の違和感について考察していきます。

 

そもそも夢とは何か?

そもそも夢とは何かと考えたときに、それは一人一人違うものです。

 

スポーツを観ている人はみんなスポーツ選手になりたいと思っているわけではないので、

プロスポーツ選手になるという夢を叶えた人を見ても、

スポーツ観戦している人の夢はそれぞれ違うので、叶えた夢を与えるつもりでプレーされても意味はないわけです。

 

夢を叶えたスポーツ選手を観て、彼らが夢を叶えたのだから、

観ている側にも自分もやれると思えという事でしょうか。

 

もしその前提でプレーしているのであれば、彼らが頑張ってすごいプレーをすればするほど観ている側は、

彼らは遠い存在だ、とうてい彼らのようには出来ないと思うのが普通ではないでしょうか。

 

「観て楽しんでもらえたら嬉しいです」とか「元気が伝われば良いと思います」とかならわかりますし、

それくらいしか言う事ないと思います。

 

感動とは何か?

「感動を与える」という言葉にもとても違和感を覚えます。

なぜなら感動は自分でするものなのです。

 

表現者は感動して欲しくて創作活動をすることもあるでしょうが、

感動は主体的なもので自分がするものです。

 

感動を意図して行われた行動や創作ほど寒いものはありません。

 

もし感動してもらうことを意図していても、言わない方が無難ですね。

感動の押し売りは感動を遠ざけるばかりか嫌われます

 

人は自分の意志で感動していると思いたい生き物だからです。

 

感動を与えるという言葉には、24時間テレビなどの感動企画の気持ち悪さがあります。

感動は、自分にはとうていできないことをしている人や現象と自分を重ねたり比較した時に生まれるものです。

 

純愛したい人は純愛映画を観て感動するでしょう。

頑張りたい人は頑張っている人を見ると感動するでしょう。

 

だから「感動を与える」ということは「あなたに足りてないものをあげますよ」ということなんです。

「感動を与える」という言葉は、「与える」という言葉と相まって、

とても上から目線な表現なんですよね。

 

スポーツ選手や芸能人が夢や感動を与えると言う理由は?他の職業は?

世の中には様々な職業があって、夢を叶えた人もたくさんいますよね。

 

・料理人になる夢を叶えた人。

・消防士になる夢を叶えた人。

・医者になる夢を叶えた人。

・役人になる夢を叶えた人。

 

でも彼らの口から「夢を与える」とか「感動を与える」なんて言葉は出てこないと思います。

 

少なくとも彼らの中でそんなことを言う人を僕は知りません。

 

なぜなら彼らは夢以外に生産するものや与えるものがあるからだと思うんですよね。

もし医者が「夢を与えたい」とか言っていたらどう思いますか?

「いや、夢とか良いから命を救ってください。病気を治してください。怪我を治してください」
と言われるにきまってますよね。

 

もし消防士が「感動を与える」なんて言っていたら。
「感動なんか与えなくて良いから火を消して人を助けてください」
となりますよね。

 

役人だったら「夢とかええから仕事せい」と言われますよね。

 

料理人だったら「うまい飯作れ」と言われて終わりです。

 

この線で考えると、頻繁に「夢を与える」「感動を与える」と言っている職業の方々は、

潜在的には自分たちが本来何も生み出さない職業であるということをわかっているからだと思うんですよね。

 

スポーツ選手や芸能人は人気商売ですから、

自分たちが素晴らしくて特殊な人間であると思ってもらわないといけないわけです。

 

正直、例外はいますけどほとんどのスポーツ選手や多くの芸能人って何も生み出さないですよね。

だから夢を与えるくらいしか言うことないと思うんです。

人気商売だけど生産性なんてほとんどないわけです。

 

だって極論ですけど突き詰めて考えたら、スポーツ選手がいなくなっても生きる上で誰も困らないですよね。

 

医者とか警察官とか技術者とかが、明日からいませんよってなったら困りますけど、

スポーツ選手や多くの芸能人って、いなくなったら数日間は悲しむ人がいるかもしれませんけど、別にいなくても世の中回りますよね。

 

ここまで言ってなんですけど、僕は別にスポーツ選手や芸能人のことが嫌いなわけではないです。

スポーツ選手や芸能人が、夢や感動を与えると言うのが違和感あるなというだけです。

 

自分なら夢を与えたいなんて絶対に言わない

例えば僕が夢を叶えたら「夢や感動を与えたい」なんていうかと想像したら、絶対に言わないですね。

僕の夢は時間的経済的な自由を獲得して好きに旅行したり労働に縛られず人生を楽しむことなんですが、

自分の力で好きに生きたいだけで、夢を与えるためにやるわけではないですね。

 

だから結局、虚構を売りにするエンターテイメントに従事する人たちが、

自分たちのことを優れていると思ってもらうために「夢や感動を与える」と言っているのでしょう。

 

何に夢や感動を覚えるかなんて人それぞれ

観てる側が勝手に感動したり元気を得たりすることはめちゃくちゃ良いことだと思いますけど、プレーヤー側が言うのってすごく違和感があったのでこの記事にまとめました。

先にも書きましたが、僕はスポーツ選手や芸能人が嫌いなわけではないですからね(笑)

好きなスポーツ選手や芸能人はたくさんいますし。

歌を聴いて気持ちよくなったり、スポーツ観戦して楽しくなったりすることはおおいにあります。

ただ彼らが言う「夢や感動を与える」という言葉にモヤモヤがあっただけなのです。

 

基本的に僕はあんまり感情の起伏があるタイプではないので、日常的に感動する事ってあまりないんです。

そういうこともあって、たくさん感動できる人のことを羨ましく思う気持ちもあるんです。

だってたくさん感動した方が人生楽しいのは明らかじゃないですか?

大人になると色んな事に慣れてしまって感動を覚えなくなってしまうことがあると思うんです。

 

何か映像作品などを観て「いい話だったなぁー」と思っても、なかなか胸が震えて泣いたりすることってなくなってしまいました。
ちなみに観てよかったなぁーと思った感動系映像作品は

・ジョーブラックをよろしく
・キャッチミーイフユーキャン
・風立ちぬ
・ライフイズビューティフル
・この世界の片隅に

くらいですね。

面白かった!と思える作品はたくさんあるんですが、

感動系で観てよかったと思ったのってこれくらいです。

下の記事にも書きましたが、自分の中でフィクションに対する感動はだんだん薄れてきているのもわかります。

フィクションへの興味が薄れた理由とこれからを考えてみた

 

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最後に:一番感動しているのは前に進み続けるアスリートたち

アスリート達を見て思うのは、一番感動しているのって

観客じゃなくて彼らなんですよね。

なぜなら彼らは試合のために一生懸命努力して勝利するからです。

だから自分が感動するためには、何か打ち込めるものに挑戦するのが一番だと思いますね。

 

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ヒロ

Webマーケティング会社でマーケターやってます。自社とクライアントのメディアのグロースやってます。このブログは主に力抜いて思うことを書く場としています。たまにマーケティングのノウハウとか書きます。

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