(2019年3月11日初稿)
こんにちは。
タイトルにもある通り、僕は2016年の4月にあった熊本大地震によって被災しました。
この記事を書いているのが3月11日で、東日本大震災の日と同じなのはたまたまです。
僕はこの記事を、震災時の知識を多くの方に共有する目的で執筆しました。
震災当日から2016年の終わりまでを振り返りたいと思います。
※最大震度6弱以上が観測された7件の地震の主なデータをのせておきます
発生日時 / 震央の区域 - 規模 Mj(Mw) / 最大震度
4月14日21時26分 / 熊本県熊本地方 - Mj6.5(Mw6.2) / 7
4月14日22時07分 / 熊本県熊本地方 - Mj5.8(Mw5.4) / 6弱
4月15日00時03分 / 熊本県熊本地方 - Mj6.4(Mw6.0) / 6強
4月16日01時25分 / 熊本県熊本地方 - Mj7.3(Mw7.0) / 7
4月16日01時45分 / 熊本県熊本地方 - Mj5.9(Mw5.8) / 6弱
4月16日03時55分 / 熊本県阿蘇地方 - Mj5.8(Mw5.6) / 6強
4月16日09時48分 / 熊本県熊本地方 - Mj5.4(Mw5.2) / 6弱
目次
【2016年4月14日夜】
2016年4月14日21時30頃、僕は母と兄と共に家にいました。
僕と兄は1階で寛いでいて、母は2階で寝ようとしているところでした。
突然、大きな揺れを感じました。
揺れが起きた瞬間はわけがわからず、家に車が突っ込んだのか、
それとも当時は北朝鮮のニュースが沸いていたので、戦争でも始まったのかと思いました。
しかし、すぐに地震だと理解しました。
床が揺れ、視界が揺れ、脱衣所の棚が倒れました。
動けませんでした。
母が2階で叫び声をあげていました。
揺れが収まってから兄と共に2階に行くと、母はベッドにしがみつき腰を抜かしていました。
リビングに戻ると、食器類が3割くらい割れていました。
当時の僕は自室で金魚等を飼っていたのですが、かなりの量の水がこぼれてしまっていました。
揺れが断続的に続くので、僕は水槽のエアレーションを止め、泣く泣く水槽をベランダに置きました。
ニュースを見ると、震源は家から車で20分くらいの距離でした。
熊本は地震の少ない地域だというのが、県民の共通認識であったと思いますが、
地球にとってそんな思いは関係ありませんでした。
本棚が倒れたりと、家の中はぐちゃぐちゃ。
僕が集めた大好きなCDたちもバキバキになっていました。
いまでこそミニマリズムの本を読んでからは物を減らし始めましたが、
当時はまだ母も僕も物を捨てないタイプの人間だったので、
ぐちゃぐちゃになった家具の片づけには本当に苦労しました。
でも、大きな揺れがあったのだから、もうしばらくは大丈夫だろう、そんな思いが心の隅にありました。
当時のバイト先のホテルから安否確認の電話がありました。
現実感がなさ過ぎて、その後の経緯はあまり覚えていませんが、
次の日、僕はまさかの出勤をしていました。(死んだ魚の目)
【4月15日と4月16日】
4月16日はまさかの仕事でした。
今もそうですが、僕は当時もホテルのフロント従業員でした。
(別のホテルですが)
正直当時はバイトだったし、それどころではなかったのですが僕は出勤しました。
被災してそれどころじゃないのに、出勤しなければいけないことに驚愕でした。
まぁ、このことがきっかけとなって、僕はこのホテルをやめることになります。
思いっきり被災して家の片づけもあるし家族の側にいなきゃいけないのに、僕はフロントに立っていました。
接客をしながら、一体僕は何をしているんだろう、と思いました。
たかだか1万円くらいのために、命の危険を冒して、家族と死に別れるかもしれない危険を冒して、一体何をしているのかと。
普通は、営業なんかできないだろうと。
ホテルの体制にも疑問が生じました。
実際、もともと宿泊していたお客様たちは一発目の地震でほとんどチェックアウトし、その後チェックインしてきたのは報道陣ばかりです。
一体なんのためにこんなことをしているのか、と思っていた矢先、再び大地震が起こりました。
再び視界が揺れ、電気は明滅を繰り返しました。
ロビーの壁は剥離して、粉塵が舞いました。
建物が大きく揺れているのがわかりました。
このまま建物ごと潰れて死ぬんじゃないか、さっさと逃げよう、そう思っていましたが、僕を呼ぶ声がしました。
外国人客の相手をしてほしいとのこと。
当時、従業員のなかで英語ができたのは僕しかいなかったので、対応せざるを得ませんでした。
僕は仕事に戻りました。
幸い、非常事態のために職場にはたくさんの従業員ならびにエリアマネージャー等が来ていたので助かりましたが、
本当に場は騒然としていて生きている心地がしませんでした。
電話はほぼなりっぱなしで、キャンセル通知のファックスが大量に流れてきました。
テレビ局や新聞社、海外メディアなどから電話がかかってきました。
同僚が電話を取りましたが、「いまそれどころじゃないです!」と切れて電話を切っていました。
僕も「英語がわからないから電話かわって」と同僚に言われて電話を受けました。
イギリスの放送局でしたが、「いま非常に危険な状態で忙しいから電話してこないで!」と英語で言って電話を切りました。
なんどもなんども全員の携帯電話の警報がなって、とてつもない緊張感でした。
全員が全員とは言いませんが、取材陣は本当にクソでした。
基本的に横柄で、仕事がめちゃめちゃあってもう一秒も無駄にしたくないというくそ忙しい時に「ここは海抜何メートルか」とか聞いてくる始末。
津波を気にしていたのでしょうが、そんなものネットで調べれば出てくるだろうに。
いつもならそんな質問には普通に対応するのですが、あの時はマジで死ぬかもしれない危険な状況ということで本当にイライラしていました。
他にも、清掃スタッフが被災して仕事に来れないから部屋の掃除はできていないが、
それでもOKなら宿泊できると予約時に伝えているのに、来てから部屋がきたないとぐちぐち文句を言う。
あとは、まだ思いっきり揺れてる震災中だというのにデリヘルを呼ぶ。
もうほんとバカ。
まぁあの時に営業してる業者も業者だし、出勤しようと思うデリヘル嬢もデリヘル嬢だけどな。
あとは、危険だから部屋を出ろと言っているのに、撮影をし始めて言うことを聞かないとか。
他にもいろいろありましたけど、いままでネットを介して知っていたマスコミへの悪いイメージは、実際のものとなりました。
マスゴミは、本当にマスゴミなんだなぁ、と。
少し揺れが落ち着いてからは、お客様たちにはロビーにいてもらい、毛布や軽食を配布しました。
わずかに残っていたお客様たちには、「このホテルはとても対応がいいから、他のホテルをキャンセルしてこのままここに泊まりたい」などと言っていただきました。
本当に嫌なことばかりでしたが、それだけが癒しとなりました。
4月17日以降
揺れが続く中、まだ僕は働いていました。
ホテルに泊まりながら仕事をしていました。
兄は職場に泊まり、母は鹿児島の祖父のもとへ避難していました。
4月20日くらいだったと思いますが、自宅に水と電気が来なくなったのと、
家のなかがぐちゃぐちゃで住める状態じゃないので、もう僕も鹿児島に逃げることにしました。
そして当時のチーフに退職を伝えました。
本当に命の危険を感じていましたし、テンパりまくっていたので、
どうやって鹿児島に行くのか聞かれた時に、「車は渋滞するので原付で行きます!」と言ったりしていました。
もう頭がおかしくなっていたんですね。
地震になれたのかなんなのかわかりませんが、遠くで地響きがすると「あーそろそろ地震だー!」とわかったり、
震度5くらいではおどろかなくなったり、震度5くらいではバリバリ爆睡していたり、
いまでは考えられませんが、当時はそんな感じでした。
いつ飯が食えなくなるかわからないということで一度の食事でめちゃめちゃ食っていたので、逆に太りました。
家のなかはまだぐちゃぐちゃでした。
後で構造体には問題ないとわかりましたが、当時はエコキュートが倒れたり、
町内に電気がこなかったりして、住める状態ではありませんでした。
冷蔵庫のなかもそのままで疎開したので、鹿児島から帰ってきたときには見たことないようなカビが発生していました。
退職したホテルも、5月半ばに就職した新しいホテルも、ところどころ壁がバッキバキに割れていました。
室外機が落ちたり、水道管が破裂したり。
震源地は東区の益城近辺だったので、実情を知らない人は、
中央区はあまり被害がなかったと勘違いしているケースが多いのですが、
震源地から車で40分はなれた中央区の街中でもひどい有様でした。
店のなかぐちゃぐちゃ、道路や壁バッキバキは当たり前でした。
自分の家は東区だったので、近所の築年数のある家は全壊しているところもありました。
※現在この建物はありません。
所々マイケル・ジャクソンのゼログラビティ状態になっている建物もありました。
「人」という字の、下の支えがないバージョンですね。
解体費用がかかるからなのか、解体業者が見つからないからなのか、
傾いた家や店が1年から2年くらいそのままのところもありました。
5月中旬になって、正社員として採用してくれる今のホテルに就職しました。
日本全国いろんなところから土木関係のお客様が訪れました。
いまはだいぶ状況が改善して震災復興関係以外のお客様も増えました。
熊本城の復旧も徐々に進んできました。
でもやはりまだ復興しきれていない場所がたくさんあります。
倒壊した建物の撤去は行われたが、ただ更地になっただけのパターンが多いですね。
まだまだ問題は山積みですが、僕みたいに被災から立ち直った人がもっと増えることを願います。
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